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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [14]




 手の力が一瞬緩んだ。それは美鶴にも伝わった。
 すばやく携帯を取り上げ、身を引き、頭突きの余韻など味わう暇も無く携帯のボタンを押した。そうして耳に当てようとするところを、勢いよく叩かれた。
 慌てて拾おうとするが、携帯は床を滑って部屋の隅へ。追いかけようとする手首を無遠慮に握られた。驚いて見上げる先で、霞流が冷たい視線を向けている。
 諦めたらダメだ。なんとしても救急車を呼ばなきゃ。
 だが、なぜだかその瞳に違和を感じ、美鶴は思わず動きを止めた。
「意外とやるな」
 それまでの、朦朧とした、どこかを彷徨うような不安定な声ではない。侮蔑的ではあるがハッキリとした、聞いたことのある声。
「霞流さん?」
 訝しげに眉を潜める美鶴の手首を離し、上半身を起こしてベッドに腰を下ろした。そうして包帯を無造作に掴んで引っ張る。
「ったく、鬱陶しいったらないな」
 ブツブツと不平のような言葉を漏らし、適当に引っ張っては包帯を外してしまう。
「ダメです。まだ血が止まってない」
 慌てて止めようとする美鶴を冷ややかに見つめ、包帯についた血を指差して鼻で笑った。
「絵の具だ」
「は?」
「よく見ろ。血なんかじゃない。これだけ時間が経っているのに、変色もしてないだろう?」
 見れば、包帯には鮮やかな赤色。そういえば、血液は時間が経つと黒っぽく変色する。
「エノグ?」
 ワケがわからず呟く美鶴の目の前で、霞流は手櫛で髪の毛を纏め、身姿を整えた。そうして口元に笑みを浮かべる。
「今回のところは合格といったところかな?」
 薄茶色の髪の毛がサラリと肩を撫でる。蛍光灯の光を浴びるそれは艶やかで、細く切れた瞳は涼やかに光り、それは少し鋭くて刃物のようでもあり、相手をからかうような余裕も(たずさ)えている。頬は白いが青白くはなく、開けば皮肉しか飛び出してこないような唇には赤みが戻り、どんな言葉でからかってやろうかと思案している。
「ゴウ、カク?」
 首を傾げると、後ろから扉の開く音。振り返る先ではユンミが組んでいた腕を解き、やはり笑いながらパチンと壁のスイッチを押す。パッと部屋が明るくなった。美鶴は驚いて見上げる。
 切れているはずの明かり。
「部屋が明るいと、絵の具ってバレちゃうかもしれないからね」
 ケロッと肩を竦める。
「合格って?」
「言葉の通りさ。お前はとりあえずは俺が満足するような言動を取った。それだけの事だ」
「え? どういう」
「鈍いわね」
 呆れたようにユンミが部屋へ入ってくる。
「つまり、今までのは全部ウソだったって事よ」
「え? 嘘? 全部? 今までの事が?」
「そ」
「じゃ、じゃあ、頭に怪我をしたのは?」
「嘘」
「血が止まらないっていうのは?」
「あれは絵の具」
「死んじゃうかもしれないっていうのは?」
「お前に突き飛ばされたくらいで死ぬほど俺は馬鹿ではない」
「ちなみに」
 ユンミは床に転がる注射器を摘み上げる。
「クスリも嘘。慎ちゃんも私も、そういったモノには手を出してはいないわ。まぁもっとも、あんな店に出入りしてるんだから、信じられないかもしれないけれどね」
「じゃあその注射器は?」
「おもちゃよ」
 摘んだままユラユラと左右に振ってみせる。
「う、そ」
 美鶴はふらつく頭を抑え、ベッドに片手をついて身を支えた。
 嘘だった。全部、なにもかも嘘だった。
 思い返せば、不可解なところはたくさんあった。最初は救急車を呼ぶだの警察を呼ぶだのと騒いでいたユンミが、ある時を境に逆に病院へ連れて行く事を頑なに拒んだ。普通に考えれば明らかにおかしい。
 嘘だったのか。

「お前はとりあえずは俺が満足するような言動を取った」

 試されていたのか。自分はただ試されていただけなのか。
 呆然とする意識の中で、あんなに心配させられて、嘘でしたとケロッと笑う二人に、ふつふつと怒りがこみあげる。
 だが、床に放り投げられた包帯を見つめて息を吐く。
 よかった。
 心の底からそう思う。
 霞流さんが死んじゃわなくって、本当に良かった。
 でも本当は、私がもっと勇気を持って霞流さんにアタックしていれば、こんな事にはならなかったんだ。
 腹も立つ。だが、そもそも霞流慎二は、自分の存在を好ましくは思っていなかった。それをこちらが無理やり押しかけただけだ。
 霞流慎二はあの手この手で女性を傷つけてきたと、美鶴はちゃんと智論から教えてもらっていた。このような扱いを受けることくらい、予想できていなければいけなかったのだ。
 悪いのは自分なのだと、思い知らされる。
「すみません」
 項垂れる美鶴に、霞流が首を傾げる。
「なぜ詫びる?」
「だって、私がもっとガツンと霞流さんにぶつかっていれば、こんな事にはならなかったんですよね。振り向かせるなんて豪語しておきながらなかなか行動できなかったし。店を出る霞流さんをこそこそと追いかけたりしなければ、こんな」
 情けなくて泣きたくなる。
 そんな顔を見られたくなくて、美鶴は俯いたまま続ける。
「すみません。やっぱり私、霞流さんが言うように、情けない馬鹿な女でした。こんなんじゃ、霞流さんを振り向かせる事なんてできるワケがない」
 自分の不甲斐無さを認めるのは癪だし、騙すような事をしておきながら悪びれもしない二人には腹も立つ。だが、どう考えてもこの場合、自分がバカだったとしか言いようがない。
「もっと自分を鍛えて、出直してきます」
 その言葉に、霞流は無言で宙を見つめ、やがて素っ気無く呟いた。
「別に期待などしていない」
 美鶴は力無く瞳を閉じる。
 ユンミはなぜだか呆れたようなため息をつき、部屋の隅に転がっていた携帯を拾った。そうしてゆっくりと近づき、差し出す。受け取る美鶴の頭を背後からポンポンと叩き、大きく息を吸って、そして吐いた。
「送ってくわ」
「え?」







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